郡山城 日本100名城スタンプラリー第六十回

2022.10.16(日)

 

今回は広島県安芸高田市吉田町吉田の郡山城です。

 

毛利元就の戦国期最大級の山城」

山頂部の櫓台跡から見下ろす、本丸・二の丸

 

100名城スタンプは安芸高田市歴史民俗資料館」でGETしました。

 

郡山城へ!

ランドプリンスホテル広島から車でまっすぐ郡山城に来ました。

距離は約74km、13時半前に到着です。

 

安芸高田市歴史民俗資料館」から見る「郡山城

案内図によると

日本百名城 郡山城跡案内図
 郡山城は、戦国時代に中国地方一円に勢力を伸ばした毛利氏の居城です。
 築城の時期は不明ですが、15世紀には存在したと考えられています。当初その城域は本城と呼ばれる東南麓の一支尾根でしたが、16世紀中頃、元就(1497~1571)の時代に全山に拡大したと考えられています。天正19年(1591年)輝元が広島城を築くまでここを本拠としました。
 山頂に本丸、二の丸、三の丸を構え、元就や孫の輝元が住んだ本丸周辺の中枢部には石垣の跡も残り、放射状に延びる尾根には270以上の郭がある、全国屈指の大規模な山城です。
 郡山城跡は、戦国大名毛利氏の権力構造を探る上で、貴重な史跡です。また、周辺には毛利氏に関係した史跡が多く残っておりますので、ぜひ散策してみてください。

 

平成27年3月 安芸高田市歴史民俗博物館

 

ここから車でチョットだけ登り駐車場に車を止めて出発です。

 

内堀跡

郡山城内堀(薬研堀)跡
郡山大通院谷の東側山裾に沿って、約100メートルを検出した断面V字方の堀・薬研堀。堀はさらに上下に続いているが、ここを起点に郡山山麓を廻る内堀となっている。十六世紀中頃~後半毛利元就・輝元時代に造られたとみられる。薬研堀の発掘調査例では、国内で最も長い。 

(案内板より)

 

案内図がありました。

左側から登って、ぐるっと回ってくる感じです。

 

毛利元就墓所参道から山に入ります。

 

毛利元就公の墓

 

登山口まで来ました。

登ります。

まだ登ります。

 

何か見えてきました。

あの上が「御蔵屋敷跡」のようです。

 

「御蔵屋敷跡」手前まで登って振り返り。

上から見ると結構急な登りです。

 

「御蔵屋敷跡」

 

「釣井の壇」の井戸

 

案内図より

釣井の壇
 釣井の壇は、長さ75m、幅15m、面積約1000㎡の長大な曲輪である。曲輪の基部には石垣が見られる。北に姫丸の壇、南は御蔵屋敷に通じ、ここから東側2段上が本丸である。
 直径2.5mの石組井戸があり、本丸に最も近い水源である。この井戸は、現在埋れて深さ約4mになって水は湧いていないが、埋れた土を掘ればかつてのように水をたたえると思われる。

平成三年三月
吉田町教育委員会

(地図を含め、案内板より)

 

北の「姫丸壇」へのルートは通行止め。

 

「三の丸下通路の石垣」

三の丸石垣
 三の丸南東と御蔵屋敷下段に続く帯郭」との間に築かれた石垣。城内の石垣は江戸時代にほとんど崩されたが、この部分では当初の石積みをわずかに留めている。帯郭から三の丸への通路は高さ4メートルの石垣を斜めに登る階段状となっており、虎口的な三の丸西の段への入口とみられる。

 

安芸高田市教育委員会

(案内板より)

 

二の丸に向かいます。

 

「二の丸」

奥が本丸、その先の山頂が櫓台跡。

 

郡山城本丸」

郡山城本丸跡
 郡山城の本丸は、郡山の山頂に位置し、一辺約35mの方形の曲輪でなっている。その北端は一段高くなった櫓台がある。櫓台は長さ23m、幅10メートルの広さで現状は破損が著しい。この地点が一番高く、標高三八九・七m、比高約二〇〇mになる。
 城の遺構は、山頂本丸曲輪群を中心に放射状にのびる6本の尾根、さらにそれからのびる6本の支尾根、あわせて12本の尾根と、それらに挟まれた12本の谷を曲輪や道で有機的に結合させ、まとまりをもたせた複雑な構造をなしている。
 曲輪も大小合わせて二七〇段以上みられる。
 大永三年(一五二三)に毛利元就郡山城の宗家を相続し、郡山の南東にあった旧本城を、郡山全山に拡大していった。元就はここを本拠城として、幾多の合戦を経て中国地方の統一を成し遂げた。

 

平成三年三月
吉田町教育委員会

(案内版より)

 

「本丸櫓台跡」

 

山頂を制覇し、帰路につきます。

 

蔵屋敷、二の丸、本丸方向を振り返り。

 

「勢溜(せだまり)の壇」

上がってみます。

勢溜(せだまり)の壇跡
 勢溜の壇は、本丸の峰から南西へ長くのびる尾根を、御蔵屋敷の下段を堀切で区切って独立させ、十段の大型の曲輪からなる壇で、尾根沿いに比高差約1mで、面積約500㎡から700㎡の広さの曲輪を四段連ね、その先にこれらを取巻く帯郭を三段、さらにその先端には付曲輪を加えている。
 この曲輪群では、特に東南方の大手、尾崎丸方向への防禦は厳重で、たとえ、この方面を破っても、この三重の帯曲輪で防ぐことができ、現在の登山道が当時のものとすれば、さらにこの上の勢溜の壇の曲輪群から攻撃できる構造になっている。
 ここには本丸守護の兵が滞在していたことがうかがえる。

 

平成四年三月
吉田町教育委員会   

(案内板より)

 

勢溜の壇を右手に見て下ります。

 

下ります。

高低差がかなりあります。

 

「尾崎丸」手前

この先「尾崎丸」の手前に堀切があるそうです。尾崎丸は省略、先に進みます。

 

見晴らしの良い場所がありました。

曲輪の名前は判りませんが、まだまだ高い場所にいるようです。随分、下りてきたはずなのに。

 

旧本城へ!

帰りのルートから分かれて、「旧本城」に向かいます。

急な下りで、帰りが心配です。

 

旧本城手前の堀切

この先、ぐっと谷底に降りる感じで足場も悪く、足元注意です。

 

旧本城・本丸の崖が見えてきました。

 

谷底から見上げる旧本城・本丸

右手から回り込んで登ります。

 

回り込んだ登り道は、斜面で滑りやすいです。

この先で鹿三頭発見!熊鈴(城めぐリン)のせいか、写真を撮る前に跳ねて逃げてしまいました。クマじゃなくてよかった。

 

旧本城・本丸に上がります。

奥のほうが土塁なのか、高くなっています。

 

旧本城・本丸

旧本城の地図と写真(案内板より)

本 城  標高292m、比高90m

 郡山東南の支尾根上、吉田保育所の裏手にあり、南北両側ともに非常に急峻である。東側に流れる可愛川に突き出しており、本城は物流の要である可愛川を抑えることを意識した立地であったといえる。
 最高所(通称本丸)を中心に300mにわたり東方向に郭が伸びており、城域の両端には堀切が残る。更に東の尾根先端部には細長い平坦地が多数残り、ここも城域であった可能性がある。
 築城時期は不明だが、史料から15世紀中頃には毛利氏の山城(初期の郡山城)として存在したと考えられる。16世紀中頃、ここに居住していた毛利元就は長男の隆元に家督を譲った。その後元就は、郡山の山頂(「かさ」)に移り、当主となった隆元がこの本城に住んだ。史料上では、ここに「二重・中・固屋」という空間があったことがわかる(毛利家文書七五〇)。後に隆元は、元就の住む山頂との利便性を重視して尾崎丸へ移ったと考えられている。
                      

令和三年三月
安芸高田市教育委員会
(案内版より)

 

元のルートに向かいます。

やはり登りが急で辛いです。疲れてきたし・・・・。

 

ルートに戻りました。

無事、下山できました。

 

安芸高田市歴史民俗資料館を14時に出て、車に戻ったのが16時10分。

2時間強の攻城でした。

で、郡山城、ミッションコンプリートです。(コジカ)