2023.01.14(土)
慶応四年(1868)鳥羽・伏見の戦いの戦いにおいて、旧幕府軍は大阪城を出発して京都に入ろうとしますが薩長の奇襲に遭い後退します。そして旧幕府軍は「淀堤上の千両松」で薩長軍を迎え撃ちます。しかし事態は好転せず、淀城に入り態勢を立て直そうとしましたが、淀藩は門を閉じてこれを拒否。これで敗北が決定的になり、旧幕府軍は大阪城へ敗走・・ということだったそうです。
藩主の老中稲葉正邦や城代家老が江戸にいる間に、淀藩は薩長軍に寝返ってしまったんですね。
そんな歴史的に重要な役割を果たしたお城ですが、今では市街地化が進み、本丸と内堀の一部が残るのみです。
淀城天守台
淀城跡は京成本線「淀駅」からすぐ、天守台をかすめて線路が通っています。淀駅に着いたのは17時ちょっと前。(この写真は帰り際でずいぶん暗くなっていました)
本丸跡にある「山城の國淀城圗」
ここから鳥羽・伏見の戦いの激戦地「戊辰戦争淀千両松の戦いの碑」まで1.5キロ弱とのことですが、もう暗くなって遅くなるので今回は断念です。
多門櫓跡からみる天守台
天守台の穴蔵
カギがかかっていて中には入れませんでした。
天守台脇から本丸を見る
本丸跡は淀城跡公園となっているほか、與杼神社や稲葉神社などがあります
丹波櫓台と「明治天皇御駐蹕之址(めいじてんのうごちゅうひつのあと)」
慶応四年に明治天皇が大阪に行幸された時、淀城で行きにご休憩、帰りにご宿泊されたそうです。
外側から見る丹波櫓台
丹波櫓下から内堀と月見櫓台へ続く本丸石垣を見る
大和郡山城⇨二条城⇨淀城と引っ越してきた五層の天守
天守台と本丸石垣、内堀
淀城の天守は、伏見城の天守を移築する予定でした。しかし、伏見城の天守は二条城に移され、代わりに二条城の天守が移築されたそうです。
この二条城の天守、実は大和郡山城から移築されたもので、二回引越しされました。これを伏見城の天守に合わせて積まれた天守台に載せてみると、小ぶりで周りに空きスペースができてしまい、四隅に二重櫓を配して隙間を埋めたそうです。
その淀城天守は宝暦6年(1756年)の落雷で残念ながら焼けてしまいましたが、図面が残っているため、復元できるかもしれません。
天守台東面(?)
もう少し整備していただけると嬉しいです。「淀城跡公園再整備基本構想(2007年10月25日)」があるそうですので、実現を待ちたいと思います。
夕方5時からの攻城だったので詳しく見れませんでしたが、整備されたらまた来たいと思います。(17時ちょうどくらいから、たった25分の攻城でした)
で、淀城、ミッションコンプリートです。(コジカ)