幸橋御門 江戸城めぐり No.010

2022.07.23(土)

2022.09.11(日)

「幸橋御門跡」千代田区内幸町一丁目)

この門は、増上寺参詣の道筋にあたるため御成橋門とも呼ばれたそうです。

今は跡形もありません。昔の地図と比べると、左の第一ホテル東京が外堀跡に建っていて、そこから外堀が右手に横切って続いていました。

そこに橋が架かり、幸橋御門はその先となり、枡形は右手の山手線・京浜東北線の高架まで食い込んだ位置になるようです。

写真を横切った外堀はここで枝分かれし、左(写真奥)に折れるルートは有楽町方面に向かい、今はその上を鉄道の高架、高速道路が覆っています。もう一方は直進し、芝口御門、浜御殿(浜離宮恩賜庭園)に続いていました。

(古写真を検索してみてください)

 

 

虎ノ御門から幸橋御門へ

kog12gnyan.hatenablog.c

虎ノ御門跡

写真中央のビルは外堀の中に建っており、そのお堀沿いを新橋方向に向かいます。

 

日比谷セントラルビル公開緑地(江戸城外濠復元石垣)

途中、同じく外堀跡に建つ日比谷セントラルビルに石垣が再現されています。

その説明板によると

江戸時代のこの通りは、江戸城の外堀に面し、河岸通りと呼ばれ、当時赤坂・青山あたりから日本橋の魚河岸にかけて、往還の賑わいのあった所です。ここに積まれている石は、寛永十三年(1636年)三代将軍徳川家光が多くの大名の助役によって、江戸城外堀の南側(虎ノ門の東)を築造するとき使用したもので、物産ビル別館増築工事の際、地下四メートル余のところから発見されたものです。

この付近の石垣は
立花宗茂(柳川)
稲葉一通(臼杵
有馬直純(久留米)
毛利高直(佐伯)等
九州各地の諸大名に割当られ、石材は真鶴や根府川あたりから切り出し、海路を運ばせたもので、石面の符号はその折石工が彫りつけたといわれております。
なお、世田谷の馬事公苑には、昭和三十九年のオリンピック(馬術競技)開催の記念碑として石垣の原型が残されております。

昭和五十八年六月吉日
港区西新橋一丁目第一町会

石面の符号が確認できます。

 

さらに進んで、山手線・京浜東北線の高架が見えてきました。

左手が有楽町方向、右手が新橋方向です。この辺りに幸橋御門はあったと思われます。

 

幸橋御門跡から城外(新橋駅方向)を見る。

右手の第一ホテル東京が外堀跡となります。この先はすぐ新橋駅で、よくサラリーマンがTVのインタビューを受けている「SL広場」があります。

 

で、幸橋御門跡、ミッションコンプリートです。

 

次回は「芝口御門」へ向かいます。(コジカ)

 

このシリーズの次の記事

kog12gnyan.hatenablog.com