四谷御門 江戸城めぐり No.006

2021.11.13(土)、14(日)

「四谷御門跡」(東京都新宿区四谷)

四谷御門跡を城外から。

左側に残る石垣から右側のJR四ツ谷駅麹町口の建物に架けて、四谷御門がありました。

 

案内版の古写真 四谷門「旧江戸城写真帖」1871年

最初の写真と同じ向きの様子です。

 

「市ヶ谷御門」から「四谷御門」へ

kog12gnyan.hatenablog.com

 

市ヶ谷橋から四谷方向を望む

ここから先は市ヶ谷濠となっています。

 

城外のお堀端を進むと案内版がありました。

外堀水面の高低差
江戸城外堀跡は、現在一部が埋め立てられていますが、かつては湧水や玉川上水の水を満々と湛えた水堀でした。起伏のある山手に位置する外堀では、堀の水位を一定に保つため、牛込・市谷、四谷門橋と食違土橋に堰が設けられ水位が調整されていました。このため、水位の最も低い神田川につながる牛込門東側と水位の最も高い真田濠では水面に約20mもの差がありました。

説明板「国史江戸城外堀跡(市谷地区)」より抜粋

これから向かう四谷御門、真田濠は一番高い場所の様です。

 

外濠公園総合グラウンド

市ヶ谷濠は途中から埋め立てられ、野球場やテニスコートとなっています。

 

四谷御門跡に到着

桝形の位置から城外を望む

 

説明板「四谷門桝形石垣に用いられた石材」

 

桝形石垣

桝形の一部ですが、石垣がしっかり残っています。

石垣の上の大きな木は、古写真の左端に移っている「木」と同じものでしょうか。

 

上智大学四谷キャンパス

御門内には紀尾井町の「尾」、尾張徳川家中屋敷があり、上智大学はその跡地に建っています。

 

13日(土)はここまでで撤収。

 

JR四ツ谷駅麹町口駅舎の渡櫓門石垣を見逃したことに気付き、翌14日(日)再訪です。

 

説明板によると

江戸城には、内郭10、外郭26の城門があったとも言われ、赤坂見附など現在も地名に残る「見附」には番人が置かれていました。外郭の四谷門は、四谷口・外麹町口とも呼ばれ、甲州街道沿いで町人や物資が行き交う門として交通の要所でもありました。
四谷門桝形石垣は、1636(寛永13)年の御手伝普請で萩藩(現在の山口県)主の毛利秀就によって作られました。四谷門の構造は、冠木門(高麗門)と渡櫓門からなる桝形門で、冠木門左手の石垣上には稲荷が祀られ、樹木も植えられていました。門の警備は3年交代で旗本が担当していました。
四谷門桝形石垣は明治期に市電の敷設に伴い撤去され、冠木門北面の一部を残すだけです。しかし、1988(昭和63)年JR四ツ谷駅改修工事に伴う発掘で、渡櫓門石垣下段の内5段が発見されました。石には毛利家を示す「雁金紋(かりがねもん)の刻印が確認されます。発掘された石垣の隅石部は、JR四ツ谷駅麹町口駅舎南側に保存されており、四谷見附橋の橋詰から覗くとその姿を見ることが出来ます。

 

(説明板「現存する四谷門の桝形石垣」より)

現存する石垣の図(説明板より)

 

桝形石垣の再現イメージ(説明板より)

 

その渡櫓門石垣の現状

見えるのはほんの一部ですが、しっかり整備してあります。

 

以上、四谷御門ミッションコンプリートです。

次回は「喰違御門」へ向かいます。(コジカ)