2021.11.09(火)
1575年(天正三年)頃、小谷城攻めの功で浅井氏の旧領を拝領した秀吉さんが初めて築いたお城です。
1983年(昭和58年)に建てられました。
しかし、大坂の陣後の1615年(元和元年)に廃城となり、資材は彦根城築城などに転用されたそうです。
天秤櫓が築かれるのは、築城の開始から数年後と考えられています。彦根藩主井伊家の家譜である『井伊年譜』には、この櫓が長浜城の大手門を移築したものであると記されています。
昭和30年代の解体修理では、移築された建物であることは確認されていますが、天秤櫓の前身が『井伊年譜』の記載どおり長浜城大手門と断定するには至っていません。
(国宝・彦根城築城410年祭 2017.03.18~12.10 HPより)
とのこと。
「内堀跡」
城跡の中心部は湖岸の「豊公園」となっていて、この碑は「豊公園」交差点の一般駐車場入り口近くにありました。
湖岸の豊公園から駅を越えた先に
「外堀跡」
湖岸の豊公園から駅を越えた先に「外堀跡」の碑がありました。
商店街を抜け、大通寺さんへ
大通寺「台所門」
長浜城の大手門を移築したと伝えられています。
「台所門」を内側から
大通寺から豊公園に戻ります。
「長浜城石垣出土地」の碑
説明板内容
史跡 長浜城遺跡
従来、この付近の水面下には、長浜城石垣の用石と伝えられる巨石が散在していた。
昭和44年7月、この地に湖岸埋め立て工事進められることになった。
同年11月下旬から1か月間、水底の発掘調査をしたところ、石垣の根石と認められる30数個の巨石が、延長30メートルにわたり整然と列をなしていることがわかった。
よって、ここに標石を設けて長浜城遺構の一端をしのび、郷土史研究の参考に供するものである。
琵琶湖の浜辺
右端の陸地に微かに石柱のようなものが見えるところが「太閤井戸」でしょうか。今は水位が低いので陸地になっている模様。その奥に「豊臣秀吉像」(天守閣跡)があるようです。(太閤井戸・秀吉像の存在は後で知りました)
水城であった長浜城、遺構はあまり残っていません。
案内版によると
城跡の遺構は、これまでの発掘調査によって石垣や掘立柱建物跡、礎石建物跡さらには舟着場らしき石組遺構等が一部発見されている。しかし、調査は部分的であり、全体の縄張りや細部の構造については、未だ解明されていない。
長浜城案内版より抜粋
とのこと。
長浜城、ミッションコンプリートです。(コジカ)