2021.11.03(水)
原城はキリシタン大名有馬晴信さんが日野江城の支城として築いたもので、1604年ごろ完成したようです。
有馬氏の転封で一時天領、その後松倉氏の支配となり、1618年島原城築城開始に伴い廃城となりました。
1637年から1638年に起こった島原・天草一揆(島原の乱)では一揆勢の籠城の拠点となり、落城後徹底的に破壊されました。
本丸の櫓台跡(天守台跡)
この場所に天守相当の三層の櫓があったと推定されています。
続100名城スタンプは、「有馬キリシタン遺産記念館」でGETしました。
15時過ぎに島原城を出て、「有馬キリシタン遺産記念館」に到着したのは16時11分。時間が無い中でも展示をじっくり見ていたので、お城に着いたら17時を過ぎてしまいました。
大手口駐車場(原城跡駐車場)に車を止めて攻城へ!
日暮れとの競争です。
大手門跡から三ノ丸に入ります。
この時点ですでに17時11分。
二ノ丸を進みます。
道の左側が二ノ丸でその先は海、右側が二ノ丸出丸で幕府軍と対峙した最前線の方向です。
基本は土造りのお城です。
二ノ丸を更に進んで本丸が見えてきました。本丸のみ総石垣造りです。
本丸左手前の低くなっているところは蓮池、右手には空堀を掘り本丸を島のようにして守っていたようです。
その本丸正門前の空堀
国内最大級の虎口遺構
本丸正門から続く、コの字のルートは国内最大級の虎口遺構だそうです。このルートは隅櫓や多門櫓に囲まれていたと推定されています。
本丸正門跡
位置関係から本丸正門と考えられ、櫓門であった可能性が高いそうです。
本丸正門を内側から見る。
立っている場所は隅櫓・多聞櫓が建っていたと思われる場所。正門から入って左折(写真右へ)してコの字を上がっていきます。
左端が本丸正門、遠方の小屋の手前でまた左折して埋門へ
埋門跡
逆コの字の最後は埋門であったようです。
本丸門跡
本丸へ続く最後の門で櫓門であったと考えられています。
本丸は総石垣造りだったのですが、一揆の後で幕府軍によって破壊されているため元の姿は想像するしかありません。
現地では「原城VR」で築城当時と一揆当時のイメージのフルCG映像が楽しめます。(現地で気付きましたが、日暮れとの競争だったのでトライしませんでした)
幕府側はオランダ船を頼んで艦砲射撃も行ったそうです。外国船からの砲撃は外国からの援軍は来ないことを知らしめるパフォーマンスだったのでしょうか。
本丸に抜け穴!?
これは大雨(2021年8月)による陥没とのこと。また、海沿いの崖も一部崩れたそうです。
穴は直径5メートル、深さ5メートルもあるそうです。
1963年(昭和38年)の豪雨でも突然穴が出来たそうで、海岸の(抜け穴とされる)横穴とつながっているのではと調査したそうです。(wikiでは抜け穴となっています)
今回の穴は抜け穴なのか、それとも単なる陥没なのでしょうか?
本丸東側より本丸正門方向・二の丸方向をみる。
雲仙普賢岳が見えます。
本丸・池尻口門跡
本丸を出て帰路につきます。
崩された石垣の様子。
落城後、幕府軍は城を徹底的に破壊して、皆殺しとなった一揆勢のご遺体と共に埋めてしまいました。発掘調査を行うと骨がたくさん出てきたそうです。
大手門跡へ向かい、撤収します。
この時点で17時43分。写真ではまだ明るく写っていますが、実際はかなり暗くなっています。
2万数千と言われる一揆勢の老若男女が皆殺しとなり、埋められたというこの城、街灯もなく暗くなるとちょっと怖いです。海側も回りたかったですが、ここで終了。
日野江城(ひのえじょう)は残念ながら見送りとなりました。
原城、ミッションコンプリートです。(コジカ)
※このページの内容は「有馬キリシタン遺産記念館」でいただいたパンフレット「世界文化遺産 原城跡」を参考とさせていただきました。