2022.10.18(火)
居館(御土居)とその背後の標高約216mの横山山頂に詰城を築き1608年(慶長13)完成しました。
しかし、元和の一国一城令(1615年)により山上の詰城は破却されました。
山が高いので天守が小さく感じます。
100名城スタンプは山上の天守でGETしました。
山上の城郭へ
途中までロープウェイに乗り、山頂へ。
舗装路ではなく、山道を選び登ります。
石垣が見えてきました。
白壁の塀が見えてきました。
石垣の角を回り込みます。
石垣の角もきれいにそろっています。
この上は大手門前の出丸になっています。
更に左に回りこむと、出丸に囲まれた大手門の外枡形虎口です。
正面に本丸の高い石垣が立ち塞がります。
御土居のある東側の石垣は、壊されずに残っています。
出丸の石垣と白壁の塀
下からは樹木に隠れてよく見えませんでしたが、出丸は御土居側に面しているためか塀が築かれています。(いつ築かれたかはわかりません)
出丸内部
外桝形を右に折れて登って大手門跡
大手門を抜けて二の丸から見る復興天守
本丸の「城郭案内図」
元の天守は今の復興天守の北側50メートルの位置にあり、今は天守台が復元されています。
天守最上階から見る本丸
木でよくわかりませんが、トイレ(お城風の建物)の先に復元された天守台があります。
天守から見る城下町、瀬戸内海
瀬戸内海に注ぐ錦川には錦帯橋、海沿いには岩国錦帯橋空港が見えます。
本丸から見る復興天守
昭和37年(1962)に「伝岩国城断面図」を元に再建されたもの。麓からの見栄えを考慮して、本来とは異なる位置に建てられています。
復元された天守台
平成6年(1994)発掘調査を行い、平成7、8年に復元されました。
本丸と北の丸を隔てる空堀
左手が北の丸、右手が本丸(だったと思います)。
北の丸
本丸、二の丸から少し下って水の手の「大釣井(おおつるい)」
大釣井
岩国城本丸の西側にあたるこの周辺は水の手と呼ばれる。
水の手は城の水を確保する重要な場所であり、この大井戸も慶長十三年(1608年)の築城の際につくられた。
また、非常時の武器弾薬等の収納をはかるとともに、敵に包囲された際や落城の危機にさらされた場合の脱出口を備えた井戸であったとも伝えられている。(説明板より)
山頂部を後にして、ロープウェイで麓の御土居に向かいます。
水堀に囲まれた「御土居」。櫓のような建物は絵馬堂の「錦雲閣」
錦雲閣(きんうんかく)
お堀の水に臨んで矢倉のようなこの建物が錦雲閣である。吉香(きっこう)神社の境内の南隅にあたり旧藩時代には三階建ての南矢倉のあったところで、明治十八年(一八八五年)居館跡が公園になったとき、この絵馬堂が建造された。楣間の横に長い額は毛利元昭の直筆で、現在は市立図書館に所蔵されている。(説明板より)
御土居内部
今は吉香神社の境内となっています。
御土居跡(おどいあと)
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後、岩国へ移封された初代岩国領主吉川広家は、慶長7年(1602)、日常の居館である御土居を城山の麓に造り、慶長13年、戦争など有事の際に使用する要害(岩国城)を城山の山上に築きました。元和元年(1615)の一国一城令によって山上の要害は破却することとなりましたが、山の麓にあった藩主の日常の居館である御土居は、岩国の政治の拠点として明治の廃藩まで残りました。
御土居の名称については、元禄11年(1698)、5代領主吉川広逵の幼少時の居所として仙鳥館が新築された時に御館(おたて)と改め、明治元年(1868)、12代領主吉川経幹が正式な大名となり城主格とされたことにより、御城(おしろ)と呼ばれるようになりました。
明治4年(1871)の廃藩置県後、御土居の土地は国有となり、建物は解体されて払い下げられ、明治18年(1885)に歴代藩主をまつる吉香神社(重要文化財)が白山神社から移築されました。
岩国市教育委員会(説明板より)
元の天守の位置では、錦帯橋からよく見えないですね。築城時にはこちら側に三重櫓が建っていて、錦帯橋側の物見の役割をしていたのでは、と考えられているそうです。
因みに岩国は独立した藩と認められず、ずっと岩国領でした。やっと藩として認められたのは、明治維新の年、慶応4年(1868年)だったそうです。
で、岩国城ミッションコンプリートです。(コジカ)