2020.10.20(火)
津城 続日本100名城スタンプラリー第四十一回
今回は三重県津市の「津城」です。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際の籠城戦で傷ついた津城を大改修したのが藤堂高虎さん。
彼は、慶長13年(1608年)伊予国今治(愛媛県今治市)から伊賀・伊勢国に移ってきて、慶長16年(1611年)から改修に着手したそうです。
なお、藤堂氏は幕末まで津藩を治めました。
昭和33年(1958年)に建てられた「模擬櫓」
この場所は、本丸より東の丸への出口にあたり、「東黒門」と「東鉄門」の櫓門があったそうです。
続日本100名城スタンプは内堀跡にある、「高山神社社務所」でGETしました。
2020秋 名古屋宿泊の旅 三日目(最終日)
名古屋から電車で三重県津市までやってきました。
城内の案内版。
現在は残っているのは、本丸と西の丸。
内堀もほとんど埋められていて、本丸北側の一部と西の丸の周りだけとなっています。
「東黒門」から「東鉄門」の桝形に入って振り返り
東鉄門桝形は、入って右に折れる(写真左方向)構造でした。
桝形を囲む石垣は取り払われています。
写真奥の方向に内堀の土橋を渡って行く、東の丸がありました。
また、模擬櫓の対面の位置に二重の「太鼓櫓」が建っていました。
本丸北東の高石垣に登ってみます。
「丑寅三重櫓」跡
「丑寅三重櫓」跡から見る本丸北側の高石垣
奥へ続く石垣上に「北多門櫓」が「戌亥三重櫓」まで続いていました。
内堀もかつてはもっと広大でした。
公園となっている本丸を抜けて、本丸の西の出口「西黒門」、「西鉄門」跡へ来ました。
ここも桝形の石垣は取り払われています。
西の丸に続く土橋の南側も埋め立てられて西の丸と一体となっています。
「東鉄門」には「太鼓櫓」がありましたが、「西黒門」「西鉄門」も二重の「伊賀櫓」に守られていました。
西黒門跡から本丸を出て土橋から見上げる「戌亥三重櫓」の高石垣
西の丸に移築され残る「入徳門」
藩校「有造館」の門とのこと。
西の丸の出口に向かいます。
西の丸の出口には二重の「玉櫓」がありました。
西の丸を出て本丸方向を見ます。
突当りが本丸石垣、そこへ続く左側の石垣は途中までが西の丸、残りは後世に堀を埋めて造られたと思われます。
右側は埋め立てられた内堀だった場所で高山神社となっています。
続日本100名城スタンプをGETした、高山神社さん
藤堂高虎さんを祭神として建立された神社とのこと。
ここで「津城跡(お城公園)」のパンフレットをいただきました。
本丸に戻って内堀跡から見上げる天守台西面
内堀が埋め立てられて建物がすぐ側に迫っています。
角度を変えて西面と南面をみます。
南面を見ると小天守台が連なっているのがわかります。
埋門から本丸に入り、内部より見る天守台
ここに建てられた五層の天守は関ケ原の戦いで被害を受け、その後再建されなかったとも言われています。(江戸時代初期に再建されていたという説もあるそうです)
埋門から再び外に出て振り返り
かつて南の堀中にあった「局丸」へ通じる門で「局丸」は高虎さんが取り除いたと考えられているそうです。
本丸南東隅の月見櫓の石垣
左側の本丸南面の埋門から「月見櫓」まで「多門櫓」がつながっていて
また、右方向へも「東鉄門」の「太鼓櫓」まで「東多門櫓」がつながっていたそうです。
写真を撮っているこの場所もかつては内堀の中です。
ぐるっと回って模擬櫓が建つ「東鉄門」まで戻って来ました。
右奥が「丑寅三重櫓」の石垣です。
「丑寅三重櫓」下をまわって本丸北面をみます。
奥が「戌亥三重櫓」の石垣、そこへ「北多門櫓」が続いていました。
お堀端(かつては堀の中)を西の丸まで歩いて振り返り
右から西の丸、西の丸と本丸をつなぐ土橋、「戌亥三重櫓」の石垣、「北多門櫓」の石垣、「丑寅三重櫓」の石垣です。
江戸時代の面影が一番残っている構図です。
お城を出て、帰り際に振り返り
「丑寅三重櫓」の石垣をみます。
この丑寅三重櫓から北多門櫓、戌亥三重櫓のラインを是非復元していただきたいです。
城内の案内版にあった古写真
このように写真もちゃんとあります。
また、「御城内御建物作事覚四」という資料があり、それは「1662年(寛文2年)の大火後の津城再建に用いた指図で、本丸周囲の櫓(やぐら)・多門櫓・門などについて詳細に記述されており、建築学上、第一級の資料」とのことです。(三重県HP:歴史の情報蔵より)
復元の条件は整っているように思われる津城、いつか再建されることを期待しています。
で、津城ミッションコンプリートです。(コジカ)
文中のコメントは、高山神社でいただいた「津城跡(お城公園)、三重県HP、津市市外向け情報「津うrip」HPを参考とさせていただきました。