日出城(暘谷城) 日本100名城<番外篇>第九回

2023.02.18(土)

今回は大分県速見郡日出町の「日出城」です。

城下だけでなく、城も立派な暘谷城

城下かれいで有名な日出ですが、高石垣に囲われた本丸が残り、2つの櫓が現存する日出城(暘谷城)自体も必見のポイントです。

 

天守台から見る別府湾

本丸は小学校の敷地内のため、特別にお願いして観光案内所の方に案内していただきました。

正面の対岸にみえるぽこっとした山は「高崎山城跡」の高崎山でしょうか。

 

本丸から見る天守

本丸は小学校として活用されています。

 

天守台上り口

付櫓が有ったのでしょうか。

 

天守台から見る本丸石垣

高くてちょっと怖い感じ。公開していないので柵やロープも有りません。

 

天守台の様子

ここには三重三階の天守が建っていました。飾り破風などない層塔型天守であったそうです。

 

天守台の見学を終えて、本丸から撤退します。

案内所の方とはここでお別れ。

どうもありがとうございました。

 

御裏門虎口跡から見る本丸東側石垣

手前が裏門櫓跡に建つ鐘楼。この時鐘は元禄八(一六九五)年三代藩主木下俊長の命により鋳造されたものだそうです。

左奥が天守台。右に入っていくと御裏門がありましたが枡形石垣ともども撤去されています。

 

説明板がありました。

日出城の築城

 日出藩木下家は、全国でも数少ない豊臣秀吉ゆかりの大名です。初代藩主木下延俊は、父家定とともに秀吉に仕え、関ヶ原の戦では、義兄の細川忠興の強い説得により徳川方に付き、忠興の幕府への取り成しによって、豊後国速見郡日出三万石が与えられました。
 慶長六年(一六〇一)八月、日出に入国を果たした延俊は、日出城の築城に着手。城の縄張(設計)は忠興が行い、石垣も忠興の家臣穴生理右衛門を棟梁に構築されました。天守は家定の助勢により築かれ、裏門の扉は富来城(とみくじょう)(国東市)の城門扉を転用したといわれています。
 本丸には、御殿を中心に天守、大手門、搦手門、櫓が築かれ、鬼門にあたる北東隅の城壁は入隅の構造をなし、その上に築かれた鬼門櫓本体も隅欠きを施した特異な構造となっています。裏鬼門(南西)の城壁も同様に隅を欠き、横矢がかけられています。

町史跡「暘谷城趾」[昭和]三十五年十月十七日 指定]

   日出町教育員会 
             (説明板より)

 

本丸石垣の下を天守台に向かいます。

 

天守台石垣

立派な高石垣です。

 

海側から見る天守

天守台下の説明板

日出城(暘谷城:ようこくじょう)の石垣

 日出藩初代藩主木下延俊は、慶長六年(一六〇一)秋より約一年の歳月をかけて日出城を築城し、石垣の構築は細川忠興の家臣で築城の名手・穴生理右衛門の指揮によりなされました。「穴生(あのう)」は、近江国穴太(滋賀県)の石工集団・穴太衆を指し、安土桃山時代から江戸時代にかけて多くの城の石垣を手がけました。穴生理右衛門もまたその一員であったとみられ、彼の指揮により築かれた日出城の石垣は、「穴太積み」とも呼び親しまれています。
 日出城の石垣は、築石に野面石(自然石)や粗割石を用い「乱積み(石材を不規則に積み上げ、横目地が通らない)」と「布積み(石材を一段ずつ横に並べて据え、横目地を通す)」の中間にあたる「布目崩し積み」により構築されました。
 日出城の石垣は、日出藩木下家の歴史とともに、「穴太衆」そして「穴太積み」の歴史を語り継いでいます。
     日出町教育委員会 (説明板より)

 

望海楼(久頓櫓:きゅうとんやぐら)跡へあがるルート

天守台の向かって左側、下から上がってみます。

 

さらに上ると本丸に入れます。

説明板の「正保城絵図」では、ここには「望海楼」があったようです。ここの情報だけではどこ迄建物があったのか、この途中の段はなんなのか詳細は不明ですが、櫓の中を通って本丸に上がる構造だった様です。

 

月見櫓(金物櫓)跡の本丸石垣(右側)

本丸下をぐるっと回り込んで月見櫓下まで来ました。本丸の石垣はだいたい残っているようです。左に見えているのが移築現存する「鬼門櫓」

 

奥まで進んで右に折れて突き当りが「大手土橋」

右手の隅に「月見櫓」があったと思われます。

 

移築現存する「鬼門櫓」

内部も見学可能です。

 

1階の様子

 

2階の様子

東北隅を欠いた造りが分かります。

 

その東北隅から見た様子

 

確かに東北隅を欠いた形状(5角形)となっています。

隅櫓(鬼門櫓)

隅櫓は、日出藩木下家の居城である日出城の本丸東北隅に築かれた二層二階櫓で、「鬼門櫓」とも呼ばれています。慶長六年(一六〇一)から翌二年にかけての日出城の築城とともに築かれたと考えられますが、史料上の初出は『豊後国日出城絵図(正保城絵図)』で、十七世紀中頃には構築されていたことを知ることができます。
 隅櫓の特色は、櫓の東北隅を欠いた特異な構造にあります。当時、東北の方位は、禍を招く「鬼門」として忌み嫌われていたことから、これを除けるために隅を欠いたといわれています。こうした櫓は全国でも大変珍しく、日出城の他に例をみないといわれています。
 明治四年(一八七一)、廃藩置県により日出藩が廃止されると、明治八年(一八七五)には本丸内の天守や櫓が競売に付せられ、次々と取り壊されていきました。しかし隅櫓はこれを免れ、山村洋太郎氏、南喜平氏を経て中村貢氏が所有し、大正一〇年(一九二一)に下仁王(東仁王)へ移築され、平成二〇年(二〇〇八)、中村家より日出町に寄付されました。
 日出町有形文化財 平成二一年七月一〇日 指定
 日出町教育委員会 (説明板より)

 

「大手土橋」から見る「鬼門櫓」

左手の隅が「月見櫓」と思われます。

大手門自体は枡形石垣もろとも撤去されています。

 

本丸の図がありました。

「鬼門にあたる北東隅の城壁は入隅の構造をなし」という北東隅を確認忘れました。前を通ったのに・・・残念。

 

観光案内施設「二の丸館」傍に移築現存する「裏門櫓」

コワーキングスペースとしても使われているこの櫓、観光案内所の建物かと思ったら、本丸に在った櫓を移築した本物でした。

本丸の「裏門櫓」跡には前述の鐘楼があるのでこちらに移築したのでしょうか。

 

大分県には100名城の府内城岡城。続100名城の中津城臼杵城佐伯城角牟礼城。他にも杵築城など見どころがたくさんあり、見てきましたが、ここも是非来たかったお城でした。

本丸は小学校の敷地となっていますが、天守を復元し、二つの現存櫓を本丸に戻せば、本丸東側はかなりかつての状態に戻せると思います。

 

で、日出城、大満足でコンプリートです。(コジカ)