沼田城 続日本100名城スタンプラリー第五十一回

2022.08.28(日)

今回は群馬県沼田市沼田城です。

「江戸・両国橋に絡んで消えてしまった、五層の天守

 

本丸・西櫓台の石垣・石段

 

この地方の領有権争いをしていた真田氏と北条氏。秀吉さんの裁定で、沼田城は北条氏、名胡桃城は真田氏となっていました。ところが北条方の家臣が名胡桃城を占拠するという「名胡桃城事件」が発生! 小田原征伐となり北条氏は滅亡、戦後処理で沼田城は真田氏の物に!

そして、真田昌幸さんは嫡男信幸さんに沼田を与えました。初代沼田藩主となった信幸さんは城を整備し、慶長2年(1597年)には五層の天守が完成したとのこと。

しかし、五代信利さんの時、天和元年(1681年)、沼田藩が請け負った江戸・両国橋の橋架構工事の用材提供が期限に間に合わず、合わせて領内治政不行き届き!!ということで改易になり、天守を始め城はすべて破却されてしまいました。

そしてその後、天守や櫓が再建されることはなかったそうです。(参考文献「真田氏時代の沼田城下町 文化財散策ガイド 群馬県沼田市教育委員会」)

 

続日本100名城スタンプは沼田市観光案内所」でGETしました。

 

岩櫃城から沼田城

15時ころ岩櫃城を出て、沼田城に着いたのは16時過ぎ。スタンプのある沼田市観光案内所の営業時間に何とか間に合いました。

 

三の丸跡から見る本丸跡

テニスコートにぽっかり空いた穴は、発掘調査の跡でしょうか。テニスコートの奥の緑の辺りが三重櫓の巽櫓跡と思われます。穴の先、テニスコートの途中から本丸を囲うお堀だったようです。

 

三の丸側(テニスコートの側)から見る、一部分だけ残る「本丸堀跡」

テニスコートから曲がって、堀が続いていました。左手が本丸で右手が二の丸です。

 

本丸堀跡の右側の小高い部分は、二の丸焔硝櫓跡でしょうか。

 

本丸堀跡を反対側から見る。

その向こうが穴が開いていたテニスコート。右手が本丸、左手が二の丸。

 

本丸堀跡の延長線上に本丸御門跡。

堀を渡る橋が架かっていたでしょうか。

 

本丸御門から進んで天守跡。

この辺りに五層の天守があったようです。なんだか発掘中です。

 

「令和4年度沼田城発掘調査現地説明会」は今日だった。

発掘現場に近づいて見ます。

後で知りましたが、「令和4年度沼田城発掘調査現地説明会」がお昼頃あったそうです。残念、それは聞きたかった。でも、それに参加したら岩櫃城遠征が厳しかったと思います。

 

本丸内部に回ってみると天守付近一帯が規制されています。

 

「利根英霊殿」には行けるのでそこから発掘現場を見てみます。

 

利根英霊殿脇から見る発掘調査現場。

最初にお堀側から見た場所のちょうど反対側になります。

調査結果が楽しみです。

 

本丸に再建された鐘楼。

朝夕6時に時を告げています。

 

本丸・西櫓台を外側から。鉄の支柱は沼田市民のシンボル「御殿桜」を支えているようです。

現地では西櫓台ですが資料では、二重櫓の乾櫓とあります。

ここから崖になっていて水の手曲輪に降りれるのですが、崩落の危険があるのか通行規制されています。

 

捨曲輪跡(古城)

沼田城の本郭跡
 正保元年(1644)に幕府が諸藩に命じて作成させた正保城絵図で古城と記されている場所。この捨曲輪が、沼田氏が築城した初期の沼田城の本郭であったといわれ、今もその雰囲気を残しています。二の丸との間の堀は深く、沼田城が堅固な山城であったことがわかります。(沼田市観光協会HPより)

 

捨曲輪は絶好のビューポイント。

名胡桃城も見えます。

以上、駆け足で回った沼田城、ミッションコンプリートです。

時刻は17時半過ぎ、東京に帰ります。(コジカ)