岩櫃城 続日本100名城スタンプラリー第五十回 後編 潜龍院跡 郷原城跡

2022.08.28(日)

潜龍院跡(せんりゅういんあと)

本気で武田勝頼公を待っていた真田昌幸さん

岩櫃山の大絶壁と潜龍院跡

新府城を出た勝頼公を迎えるため、真田昌幸さんが三日間で造らせたという古谷御殿。残念ながら勝頼公は小山田信茂さんの居城である岩殿城へ向かってしまい、そこで裏切りに遭い、ここに来ることはできませんでした。その後、御殿跡は山伏寺「潜龍院」となりました。

 

潜龍院跡へ

一旦、岩櫃城から下りて平沢登山口駐車場で山の南側の「潜龍院跡」へのルートを確認します。さっき断念した山越えルートの代わりに、山すそを回って車で行きます。

ナビでは潜龍院や古谷登山口駐車場を設定出来ず、付近の住所を目指してなんとなく向かいます。

狭い道を抜けてなんとか古谷登山口駐車場に到着。

10台くらい停められそうです。また、古谷集会所のトイレを使わせてもらえます。

 

いよいよ潜龍院跡へ!

少し登りながら、10分強で潜龍院跡到着です。

潜龍院跡の石垣の上から東の方向を見る。

この東の方向には郷原城」があり、さらに山を回り込んだ先が「岩櫃城」です。

 

現地の案内板

潜竜院跡(せんりゅういんあと)
 武田勝頼を迎えようとした御殿跡

 戦国時代の天正十年(1582年)三月、甲斐の武田勝頼は織田・徳川の連合軍に攻められていました。軍議の席上、真田昌幸岩櫃城に勝頼を迎え入れ、武田の再挙を図ることを提案して許されました。昌幸は急ぎ帰国し、岩櫃山南面のこの地に勝頼を迎えるための御殿(現在は石垣が残るのみ)を三日間で造ったと言われています。
 しかし、勝頼は吾妻の地に来ることかなわず天目山で自刃してしまいました。この時に勝頼が吾妻に赴いていたならば、この地は戦乱の舞台として時代の中心的立場に置かれていたことも十分に推測されます。
 急造された御殿は昌幸の一族である根津潜竜斎という山伏が拝領して寺とし、厳下山潜竜院と称して明治にいたり、明治十七年にその護摩堂が原町顕徳寺の本堂となっています。


岩櫃城の概要

 本丸跡は、この地より北東側に直線で約七五〇メートル、岩櫃山の東面に南北朝のころ築城されたといわれています。城郭の規模は一三六ヘクタールと上州最大規模を誇り、真田支配下の城として武田領内の三堅城と称されました。
 城主は我妻氏、斉藤氏と続き、永禄六年(1563)武田信玄の家臣真田幸隆支配下となり、真田の城として吾妻郡統治の中心的役割を果たしましたが、徳川家康が発した一国一城令(元和元年[1615])によりその姿を消しました。

 

東吾妻町観光協会(現地案内版より)  

岩櫃山の三合目辺りに広がる不思議な平らな空間、ここに勝頼公を迎えることができたら、どうなっていたのでしょうか。

 

郷原城跡へ

せっかくここまで来たので、潜龍院の東側に位置する「郷原城」に行ってみます。

そんなに遠くないのですが、けっこう険しい道で思ったより高低差があり、暑いしゼイゼイします。

 

現地に縄張図がありました。

岩櫃城の出城のひとつ、という感じの小さな城です。古谷御殿(潜龍院跡)の東の守りでしょうか。それともそれ以前からあったのか、情報がないのでわかりません。

 

 

郷原城本郭(たぶん)

この辺りが本郭の様です。

 

周りは結構な崖になっていたりします。

もう少し詳細に回りたかったのですが、暑くて疲れてしまったのと14時半になり次の目的地が待っているので、ここで郷原城撤収します。

 

写真ではわかりづらいですが、けっこう急な下りです。

転倒しないよう、そろそろと戻ります。

 

ということで、岩櫃城、潜龍院、郷原城、ミッションコンプリートです。

盛りだくさんな岩櫃城を後にして、次は沼田城へ!(コジカ)

 

前編はこちら

kog12gnyan.hatenablog.com