田辺城(紀伊国) 日本100名城<番外篇>第二十回

2024.03.09(土)

 

今回は和歌山県田辺市「田辺城」です。

 

田辺城水門と石垣

田辺城水門
田辺市指定史跡【昭和51年3月13日指定】

 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの後、紀伊国には浅野幸長(よしなが)が入国し、田辺には浅野左衛門佐氏重(さえもんのすけうじしげ)が入った。浅野氏は慶長11年(1606)、会津川左岸河口に築城し移るとともに、あらたに城下の町割を行った。田辺城はこの時に形づくられ、その城下町は今日の田辺市街地のもととなった。
 元和5年(1619)、徳川頼宜が紀州藩主となるとともに、頼宜の付家老であった安藤帯刀は、3万8000余石を与えられ田辺領主となり、以後幕末までこの城は安藤氏の居城であった。
 徳川幕府の一国一城制により、公的には館と称したが、幕末には錦水城とも呼ばれた。安藤家は紀州藩の筆頭家老として、和歌山に常駐し、田辺は親類の安藤小兵衛家が留守居役として、代々城代家老を務めた。
 城の河口近くには、埋門型の水門が設けられ、この水門を利用した記録も多く残っている。
 明治3年(1870)、田辺城は廃城となり、早くに姿を消してしまったが、現在、僅かに水門が昔の面影を残している。
   平成9年3月31日
   田辺市教育委員会

 

田辺城建物図明治2年調)

(現地説明板より)

 

水門から城内に上がる石段

 

石段を上がって見下ろす水門

 

門柱の礎石でしょうか?

 

水門の外には「会津川」

上には道路が通って川は遠くなっていますが、かつて門は川の水に洗われていたのかもしれません。

 

廃城となったお城は市街地に埋れてしまいましたが、水門にかつての面影を残しています。

で、田辺城、ミッションコンプリートです。(コジカ)