2022.04.17(日)
天下普請で築かれた堅城
関ヶ原の合戦後、篠山領は前田茂勝、ついで松井松平康重が封じられ丹波八上城に拠っていました。 大坂城の豊臣秀頼の存在を警戒する徳川家康は、慶長14年(1609)、浅野幸長・蜂須賀至鎮・加藤嘉明・ 福島正則ら豊臣恩顧の大名を動員して新たに篠山城を築いたのです。いわゆる天下普請とよばれるもので、 総奉行は池田輝政、縄張りは築城の名手藤堂高虎が手がけました。15ヶ国、20の大名の夫役、 総勢8万人の労力による大工事で、わずか6ヶ月という短期間で完成しました。
大手口から主郭部へ向かいます
外堀の幅は結構広いです。
北廊下門跡から主郭部に入ります。
1988年の篠山城
篠山城に来るのは2回目で、前回はずいぶん昔の1988年。あいにくの雨模様の中、一人で攻城。まだ大書院は復元されていませんでした。
(上の写真と同じような位置より撮影。車の助手席に三脚を立ててセルフタイマー)
復元大書院内部へ
100名城スタンプは大書院でGETしました。
篠山城大書院 平成12年(2000)復元
大書院は、慶長14年(1609)の篠山城築城とほぼ同時に建てられたと考えられています。以後、幕藩体制が終わるまでの 約260年間にわたって、篠山藩の公式行事などに使用されました。建物は、北正面に唐破風をつけた車寄があり、 東に中門が突き出す様式で、内部には8つの部屋があります。藩主の着座する上段の間は、大床、違棚、帳台構、 付書院が設けられています。
明治6年(1873)の廃城令によって篠山城の大半が取り壊されましたが、大書院の保存を願う人々の努力により、 城建物の中ではただ1つ大残される事になったのでした。その後、小学校、女学校また公会堂などに利用されましたが、 惜しいことに昭和19(1944)年1月6日の夜、火災により焼失してしまったのでした。
「ウイズささやまHP 大書院の歴史と概要」より
コジカはこの復元プロジェクトにちょっとだけ寄付をして参加させてもらいました。でもなかなか再訪できず、いただいたチケットも期限が切れ、いつの間にか20年が過ぎていました。
天守台は本丸(殿主丸)南東部の場内で最も高く、奥まったところに位置し、石垣の高さは約17m、平面規模は東西約18m、南北20mであります。
築城(1609)時に、天守閣は江戸幕府の指示により、城郭が堅固すぎるとの理由で建築を中止し、代わって、南東隅に二間四方(4m四方)単層の隅櫓を配置し、東面と南面に土塀をめぐらせていました。
東方には丹波富士と呼ばれる中世の山城である高城山(八上城跡)が美しい姿を見せております。
平成10年10月吉日 篠山町(現地説明板より)
埋門の外は工事中で外に出れません。
「篠山城跡埋門外の右手石垣に落石の恐れが生じたため、出入は禁止とさせていただいています。」とのこと。
と今回はここまで。
ぐるっと一周や東門、南門の馬出はまた次回。
篠山城、ミッションコンプリートです。(コジカ)