2019.11.09(土)
今回は、東京都八王子市丹木町の「滝山城」です。
この山城は、北条氏照さんが八王子城に移るまで北関東を侵略する拠点でした。
近年の研究により、北条氏照さんは由井領を支配していた大石綱周さんの養子に なり、「浄福寺城(由井城)」(八王子市下恩方町)に居住し、その後、永禄10年(1567年)までに滝山城を築城して移転してきたと考えられています。
(中略)
永禄12年(1569年)10月2日に甲斐の武田信玄さんが上野から武蔵に侵入して滝山城を攻撃した際に、城下に火をつけて「二の丸」(?)まで攻め込んだと伝えられています。しかし氏照さんが、当時同盟関係であった上杉謙信さんの重臣に出した手紙によると、城下に兵を出して戦ったとあります。
その後、氏照さんは甲斐を重視して八王子城の築城に取り掛かり、天正15年(1587年)ころまでに、移って行ったと考えられています。
(現地でいただいた「滝山城 城攻めマップ」より抜粋)
「中の丸」(右側)から「本丸への木橋」
人工的な大堀切にかかるこの木橋は、もう少し下だったと考えれているそうです。
またこの大堀切、もっと深かったとのこと。
続100名城スタンプは、「中の丸」でGETしました。
この建物はかつての「国民宿舎滝山荘」の一部だそうです。
スタンプは「八王子市加住市民センター」「道の駅八王子滝山」にもあるとの情報があります。
10月は攻城がなく、11月になり東京の続100名城にやってきました。
いつもながら出発が遅くなりましたが、都心から首都高→中央自動車道・八王子ICで降りて来ました。
「滝山観光駐車場」(無料)に着いたのは15時(ちょっと遅いですね)
後方の山が「滝山城」です。
駐車場のウェルカムボード。
ここでパンフレット「滝山城城攻めマップ」を頂きました。
大手口からお城に向かいます。
「天野坂」を登っていきます。
そんなに高い山ではありません。麓からだとちょっと小高い丘、くらいです。
桝形虎口、三の丸脇を抜けて「コの字形土橋」を振り返ります。
コの字形土橋
堀を掘る際に、一部を土のままに残して通路として使う場所を土橋という。当時はもっと狭く、敵方の侵攻に対して4回も体の向きを変えて進ませ、側面攻撃ができるように工夫していた。敵の直進を防ぐための土橋であり、大変貴重な城郭遺構である。
(現地でいただいた「滝山城 城攻めマップ」より)
「千畳敷」
昔、ここでお弁当を食べました。
「弁天池跡」(と思われ)
「中の丸」(本丸の次に重要な曲輪)
奥の建物で続100名城スタンプをGETしました。
ここには、トイレもあります。
「中の丸」から見る多摩川
中の丸の山腹には、腰曲輪と呼ばれる平場が多摩川に向かって数多く設けられている。このことから、北側の多摩川方面に対して警戒していたと考えられる。付近には河越道の渡河地点である「平の渡し」がある。
この重要な地点を抑えるために滝山城が構築されたと考えられる。
(現地でいただいた「滝山城 城攻めマップ」より)
木橋を渡って「本丸」へ
本丸の「桝形虎口」
本丸の様子(霞神社石段上より)
左側が「中の丸」から入ってくる虎口方向。
正面が南側虎口、右奥に井戸があります。
ここでもう16時になりました。
来るときは、日差しが暖かかったので車に上着を置いてきてしまいました。
日が陰ってくると流石に寒くなりました。
このお城は思ったより広大で、まだまだ見どころがあるのですがここで戻ることにします。
大手口に戻ってきました。
で、滝山城、ミッションコンプリートです。(コジカ)
なお、北条氏照さんが、滝山城から移って行った「八王子城」(日本100名城)ですが、天正18年(1590年)6月23日、豊臣秀吉さんの関東制圧の一環で、前田利家さん・上杉景勝さんの軍に攻められて落城してしまいました。城はまだ未完成だったそうです。
その時、氏照さんは小田原城で籠城していて留守でした。