大内氏館・高嶺城 続日本100名城スタンプラリー 第十八回

2019.05.26(日)

大内氏館・高嶺城(こうのみねじょう)

 続日本100名城スタンプラリー 第十八回

今回は、山口県山口市 大殿大路大内氏山口県山口市上宇野令字高嶺高嶺です。

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大内氏館の跡地に建つ、龍福寺の山門。龍福寺さんは、謀反にて自害した大内義隆さんの菩提寺として弘治3年(1557年大内氏館跡に建立されたそうです。

 

続100名城スタンプは、山口市歴史民俗資料館 でGETしました。(大路ロビーでもGETできるそうです)

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係りの方はとても親切で、いろいろ説明していただきました。

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島根県山口県遠征の2日目、今日はまず、続100名城の大内氏館・高嶺城です。

大内氏館」は、大内氏24代当主の大内弘世さんが、1360年頃に山口を本拠と定め移り住んだ時に築かれた居館とのこと。(説明板より)

お城ではなく、館なのでその詰めの城として「高嶺城」が築かれています。

 

かんぽの宿を出て、スタンプGET、旧山口藩庁門へ

山口市歴史民俗資料館は、かんぽの宿から車で10分ほど。

そこからすぐのところに山口県庁がありその敷地内に「旧山口藩庁門」が残されています。後方に高嶺城が見えます。

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この門は1864(元治元)年、萩から山口への藩庁移転の際に建てられた「山口政事堂」の正門で県の重要文化財とのこと。

第一次長州征伐で毛利敬親さんはいったん恭順を決断、藩庁も萩に戻され、建物も破却されました。しかし、その後、藩内で攘夷派が政権を奪回。敬親さんは再び山口へ移鎮し、1866年には山口政事堂が再建されたそうです。直後には第二次長州征伐で幕府軍に勝利。以降、敬親さんは正式に山口を拠点とすることとなったそうです。

↓門を内側から。

山口城は、大砲を据えて敵に備えるため、八角形に近い敷地の西洋式城郭だったそうです。平城だったため高嶺城を詰めの城としています。

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大内氏館へ

山口県庁から大内氏館に向かいます。大した距離ではないのですが、ナビがうまく補足できずちょっとウロウロしてしまいました。駐車場も良く分からなかったのですが、敷地内のお墓のそばの駐車場に止めさせていただきました。

 

↓本堂脇にある、龍福寺資料館。(見学しませんでした)

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↓復元された「西門」(内側より)

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↓発掘、復元された「池泉庭園(2号庭園)」

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↓復元された土塁と遠景に「高嶺城」(方角的にそうだと思います。違っていたらすみません)

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「高嶺城」

「高嶺城」は大内氏館の詰の城として整えられた標高338mの鴻ノ峰にある山城です。

謀反にて自害した大内義隆さんのあと当主となった大内義さんにより弘治2年(1556年から築城が開始されたそうです。

しかし、治3年(1557年)に毛利氏が山口に侵攻。義長さんは未完成の城を放棄せざるを得ませんでした。

その後、毛利氏により城は完成したそうです。

そして関ケ原で敗れ、周防・長門の2か国に減封されたた毛利氏。毛利輝元さんは、本拠地の候補として、長門国萩の指月山周防国防府 の桑山とともに高嶺を幕府に提出し意見を求めた結果萩城が毛利氏の本拠となったそうです。

そのため、元和元年(1615年)の元和一国一城令で廃城となりました。しかし前述の通り、幕末に山口城の詰めの城として脚光を浴びました。

 

で、ミッションコンプリートです。

次は萩城にむかいます。 

あれ?高嶺城は行かないの?

すみません。時間の関係で山登りは見送りとさせていただきました。

車で結構上の方まで登れるみたいだったのですが・・・

また、次回に(コジカ)